能登半島地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、
被災地で苦しい状況にある方が一刻も早く状況を脱せることを願っています。
私自身、珠洲市・輪島市の親戚を訪ねている途中、被災しました。
5日間孤立の後、祖父らと共に金沢近くの実家に戻ってこれました。
被災地を離れた自宅まで戻ってきてしばらく経ちますが、
時間が経つにつれて、かえってしんどさが深くなる気がします。
吐き出しや、備忘録的に、その時の状況を書き留めたいと思います。
当日の昼
この年末年始は、夫婦で実家近くの金沢で年越しをした。
夫婦ともに、4日から仕事始めの予定の短い正月休みだった。
こちらの実家だけ行くのは申し訳ないなと思つつ、2日には自宅に戻る予定だった。
1月1日は、うちの両親、妹、弟家族と、能登の親戚を回ることになった。
両親は飼い犬も連れて行くと言い出し、9名と1頭の大所帯だった。
車は3台で、両親の車、妹の車、弟家族の車。
我々夫婦は、妹の車に乗った。
金沢を8時すぎに出て、珠洲には11時前に着く。
珠洲の祖父の家にみんなが揃った。
祖父の家に来るのは1年ぶりで、
台所の壁が少しきれいになっていた。
5月の地震でガタがきていて修繕してもらったようだ。
入れなかった風呂もきれいに直してあった。
弟家族の姪と甥にお年玉を渡し、
みんなでおせちの海老を奪い合いながら、
のんびりとしたいつもの正月だった。
初詣にぱぱっと行こうとなり、近くの羽黒神社に行く。
父親の同級生が神職をやっているらしい。
ここでも、こないだの5月の地震ではお世話になりました云々と。
またうちは欲張りなのか、須須神社にもお参りに行った。こっちは初めてきた。
長い階段を、足の弱ってきた祖父を支えながら参ってきた。
祖父は不意に弱音を吐くことがある。
ここに参りにこれるのは最後かもしれないなという。
確かに、記憶の中の祖父より数段と足の弱いのに驚いた。
とはいえ、階段を登りきってお参りできたのは嬉しそうだった。
蛸島の海も見つつ、祖父の家に戻った。
祖父の家で、やってみたかった部屋のLiDARスキャンをした。
Appleの初売りでiPadを買い替えようと思いつつ、今のiPad Proでしかできないことをしときたかった。
面倒なので1階だけだったが、奥能登の正月風景を撮影できた。
本当にダラダラとしてしまって、輪島に寄ってく時間どんどん後ろ倒しになっていた。
叔父の家には、従兄弟の婚約者も来ていて顔を合わせる予定になっていた。
15時には輪島に向けて出ようとなり、
正月用についた餅をもらったり、祖母のスマホに最後写真を送ったりと、バタバタした。
珠洲から輪島へ
珠洲を出て、16時半には輪島につきたいなと思いながら車を走らせていた。
このままだと金沢に帰るのは、だいぶ夜中になりそうだった。
父の車が先頭、弟の車、最後にうちの車だった。
珍しくいい天気で、海側の道からの景色が良かった。
輪島に急いでいるのに、父の車が千枚田のポケットパークに入った。
妹は半分キレている。あと少しで輪島に着くのに、トイレくらい我慢しろと。
しかたなく弟の車も、妹の車もみな千枚田に停めた。
せっかくだからと、みんな降りて、トイレなり、道の駅を見ようかとしていた。
発災
自分はちょうどトイレから車に戻るところだった。
大きな揺れが来た。
すぐに携帯からも緊急地震速報がなった。
近くの防災無線も、大地震ですと放送している。
走って、駐車場の嫁と妹のもとに行く。
揺れは割りとすぐに収まった。
家族がみんな集まり、不安な顔を見合わせていた。
すぐに珠洲の祖父母に電話をかけるが、家族のどの携帯からも繋がらない。
嫁はとても不安そうだった。結婚してまだ間もない。
ただでさえ怖い状況で、知らない道の駅にいるのだから仕方ない。
なんとか祖父母に電話しようとしているなか、
もっと大きな揺れが来た。
今度のは立っていられない。
アスファルトの上にころげてしまった。
飼い犬が鼻を鳴らして怯えている。
嫁も泣き顔になりながらへたれこんでしまった。
大丈夫と背中をさすりながら揺れに耐えるだけだった。
揺れがいつ収まったのかわからないくらい、混乱していた。
珠洲の祖父母は、今の揺れはダメだったんじゃないかとみんなが思った。
引き続きみんなが電話をかけてみる。
たまたま持ってた社用携帯から、祖母の携帯にかけてみてようやく繋がった。
祖父母は無事だった。
スピーカーにして、みんなで声を聞いた。
家はダメだったと聞く。
とにかく祖父母が無事で安心したことだけを覚えている。
このあとは、状況を把握するので精一杯だった。
今、自分がおかれている状況が何なのか分からなかった。
たしか津波警報が防災無線で流れてきたのだと思う。
幸い道の駅は高いところにあり、その場にいれば問題なかった。
道の駅には車20台ほど、80人ほどがいた。
みんなが駐車場でそわそわとし、家族と会話していた。
名古屋からきたという隣の車の若者が、
地元の人ですか?どういう状況なんですかね?と話しかけてくれた。
そこかしこで、みんな情報を交換し始めているようだった。
正直、被災した実感がなかった。
スマホがネットに繋がらないのはわかった。
売店から人が逃げてきて、みんな無事そうなのがわかった。
このまま珠洲か輪島に車で走って、親戚の安否を確認しないとと思った。
そして早く金沢に帰らないとと思っていた。
父は、珠洲にも輪島にも、道がダメで行けないだろうと言い出した。
なんとなくふわふわとした考えの中で、日が暮れてきた。
とりあえずみんな車に戻ろうかとなった。
弟は、車の目の前に大きな地割れがあるのにようやく気づいた。
もしかしたら車ごとハマって大変だったかもしれないとひやっとした。
それにしても全然実感がなかった。ちょっと長めに道の駅に立ち寄ったくらいの感覚だった。
ただただ車は珠洲にも輪島にも走り出さないだけだった。
1日(夜)
道の駅は、一時避難場所でもあった。
ただ地区の人は特に来ず、自分らのような道を通っていた観光客がほぼすべてだった。
日が暮れて真っ暗になったころ、ようやくここに孤立していることが理解できた。
売店も、自販機も、どこの家も、電気がついていない。
車のヘッドライトだけが駐車場を照らしていて、異常なことなんだとわかった。
特に避難する施設があるわけではなく、みんなが車の中で過ごしていた。
気づくと、売店の人らが外で商品を配っていた。
夜ご飯にと、商品のせんべいやさきイカをくれるらしい。
また夜中に何度か車の窓をノックしてくれる人がいた。
「ウェットティッシュとかよければ使ってください」
「みかんよければ召し上がってください」
「カイロおひとりずつにどうぞ」
と、いろんな人が声をかけてくれた。
ありがたいねと嫁と妹と会話していた。
このまま車で一晩明かすしかないかとぼんやり考えていた。
寒くなってきて、車の暖房をつけて、スマホの充電もしていた。
社用携帯だけ少しネットが見れて、NHKをスマホで見ていた。
結構ひどい地震だったんだ、震度7だったんだ、大津波警報まででてたんだと知る。
防災無線で、輪島で火事が起きていると放送があった。輪島方面の空が明るい気がした。
時折、急に明るくなる時があって、なにか爆発しているのかもしれないと思ったが、
どこまでの規模か想像がつかなかった。
もろもろと安否報告しないと思い始める。
とにかく嫁の両親に無事を報告しようと、社用携帯からSMSを送った。
ほかも心配だろうと、社用携帯からテザリングして、みんなそれぞれ連絡をいれる。
自分は、とりあえずFacebookに無事ですとだけ入れた。
他に来ていた連絡も、無事ですと入れ、のんきにあけおめ連絡とまとめて返していた。
ただ余震はいくつかあった。
その度に、車を降りて様子をみていた。
車のガソリン気にしたほうがいいかな、なんて相談してエンジンは切った。
父が車にまわってきて、フルフラットにして雑魚寝でもしたらよいと。
すぐ車から逃げれるように、靴は履いたままみんなで寝た。
想像以上に夜は寒かった。
足元から冷えが回ってきて、自分は寝られなかった。
嫁は疲れたのかすぐに寝付き、時折揺れで目を覚ましていた。
時折車を降りて周りを散歩した。
千枚田のあぜのきらめきが綺麗だった。
今まで見たことがないくらい、たくさんの星が空に見えた。
明日には誰か救援でも来るんだろうかとぼんやり考えていた。
本当に長くてつらい夜だった。
2日
6時半くらいに外が明るくなってきた。
車を降りて、周りを散策した。
ようやく、被災の状況がわかった。
駐車場には大きな地割れがあった。
売店の中は棚が倒れ、物が散乱していた。
車が陥没した穴にはまっていた。
この場所に1週間以上閉じ込められてもおかしくないと理解できた。
父は、トイレの水が流せないから、どこかの用水路からでも水を取ってこようと言い出す。
たしかにトイレが早速問題になってきていた。
地区のおじいちゃんがゴミ箱やバケツやらかき集めてきた。
父と弟で水を汲みに行き、トイレを流した。うまくいった。
トイレくらいなら近くの用水路でよいだろうとなり、地区のおじいちゃん軽トラで水をたくさん汲んできた。
ちょっとずつ、知恵を出してなんとかしていこうという空気がでてきた。
そうこうしていたら、急に高校時代のあだ名で呼ばれて驚いた。
同じ道の駅に同級生がいた。こんな状況での再会にほんとうにびっくりするとともに、
昔話だったり近況を聞いたりして、なんだか気が和んだ。
母は、珠洲からもってきた正月の餅を焼こうと言い始めた。
ストーブを出し、アルミホイルを敷いて餅を焼き始めた。
嫁と母が餅を焼いてみんなに振る舞った。
どうやら他にも小さい子どもが5人くらいいたようで、よろこんで食べてくれていた。
珠洲の祖父母の餅が、見ず知らずの人を助けているようで嬉しかった。
売店の人らを中心に炊き出しも始まった。
たぶん各自の家から持ち寄っただろう米や漬物でおにぎりを作ってくれた。
炊飯器具も、売店のプロパンガスを裏から引っ張り出して来たものだ。
この日は、ヘリはたくさん飛んでいるものの結局助けは来なかった。
けれども、居合わせた人や売店・地区の方がみんなで協力して、ものを持ち寄って、
なんとかやっていこう、数日みんなで耐えていこうと、いい雰囲気だった。
北陸にはめずらしいよく晴れた日だった。
広い駐車場で、状況のわかっていない子どもたちがはしゃいでいた。
父が、少し先の道まで出れば携帯がつながる場所があると教えてくれた。
嫁と妹と、電波を拾いに行ってみた。
輪島が見える場所だった。くすぶっている煙が海の上に漂っていた。
ネットが繋がったが、スマホのバッテリーも気にして最低限の連絡だけした。
嫁と、会社への連絡をした。
また夜が来た。
寒くてつらいことを知ったあとの夜は辛かった。
ごみ袋に足を突っ込んで寝ることにした。昨日よりは温かい。
ガソリンをもっと節約するためにエンジンずっと切っていた。
強い雨が降り出して、寒くなりエンジンをちょっとかけることにした。
だけれど、スマホ充電しすぎたのか、バッテリーあがりでエンジンがかからなかった。
思い返して一番絶望的な瞬間だった。強い雨で他の車にも助けを求められなかった。
ただただ朝まで耐えた。
3日
北陸らしい曇った空に雨がぱらついていた。
気づけば、天気予報がスマホで調べられなかった。
今日は寒いんだろうか、雪でも降り始めたらもっとつらいなと思っていた。
2晩目を寒い車内で過ごしたみんなは疲れが出始めていた。
8時半頃、ヘリの音がやけに近いのに気づいた。
消防のヘリだった。スピーカーからなにか放送している。
駐車場から車をどかせと言っている?のかみんなバタバタとしだす。
ロープで隊員が降りてきた。
道の駅の駐車場から、車を道路まで全部出してほしい。
通報のあった病人・要救助者を迎えに来たと。
病気を持った方が救助要請を出せていたようだった。
ロープでヘリに収容されていった。
ヘリが飛んでいったあと、道の駅のみんなが車を動かし始めた。
タイミング悪く、うちの車は前の晩にバッテリーが上がっていた。
父や弟は車のメンテに明るい。
また名古屋からの方はロードサービス業のようだった。
誰が助けてくれたのかわからないが、ブースターケーブルを貸してくれた方がおり、
バッテリーあがりのうちの車はすぐに動かせた。
ただ、駐車場にはまだ動かない車が4台ほどあった。
車の持ち主は、どれだけ探しても道の駅にいなかった。
歩いて輪島などに避難したようだった。
それぞれ状況が異なっていた。
ドアが開くもの、サイドブレーキを引いてあるもの、ハンドルが切れるもの、…
タイヤが動くものは、ロープで牽引してずらす。
ドアが開かないものは、ジャッキアップして台車に乗せて引っ張る。
どうしても、ドアロックされた大型車だけはどうしようもなかった。
台車にも載せられない大きさの車だった。
サイドブレーキもかかっているかどうかすらわからない。
しかたなく小さな窓ガラスを割ってドアを開けて対応した。
車をすべてどかせたころ、ヘリがまた来た。
別の要救助者を助けていってくれた。
確か妊婦の方だったと思う。本当に今まで心細かっただろうと思う。
それでもまだ足を怪我した方が救助されずに残っていた。
ヘリに釣り上げるのが難しかったのかもしれない。
自衛隊のヘリが来て、今度は駐車場に着陸してその方を救助していった。
どれも無事であってほしいと、みんながそう思ってヘリを見送った。
この頃になると、隣の南志見から歩いて輪島を目指しているという方が何人かいた。
また地区の防災担当の方や、消防団の方も来られた。
隣の地区では、水も食料もなく、灯油も切り詰めていると切迫して説明された。
これまで片付けに手の回っていなかった売店を片付けて、
みんなが集まって過ごすことになった。
また地元の方が発電機を貸してくれた。
みんなで小銭を出し合って、自販機の飲み物を全部出した。スマホも充電した。
建物にみんなが集まって、より一層お互いの顔が見えるようになった。
それでも夜はまだまだ寒かった。
4日
この日も朝早くヘリが来た。
自衛隊のヘリが、要救助者を助けていってくれた。
段々と、病気一つない自分たちは、もっともっと先の話だろうと思い始めていた。
ただ、晴れていたからか、この日は本当に気が楽だった。
昼間は子どもたちと一緒に遊んだ。
またみんなが子どもたちと一緒に遊んでくれていた。
お絵かきしたり、ボール遊びしたり、仲良く過ごせていた。
停電で外にあった有料の望遠鏡が無料になっていた。
沖合に海上保安庁や自衛隊の船がたくさんいて、それを望遠鏡で見てみんなでわいわいとしていた。
自衛隊のホバークラフトがしきりに出入りしていた。
嫁は、餅を焼いてくれたり、子どもたちの面倒を見てくれたりしていた。
弟は、足が臭くなってきたから天日干ししようと、足をほっぽりだしていた。
サザエがたくさん打ち上がっているらしいとの話になった。
名古屋から来ていた若者たちが、かごいっぱいにサザエを拾って帰ってきてくれた。
U字溝に火を起こして、サザエを焼いてくれた。
売店も、多分売り物のブルーベリーをみんなに配ってくれた。
どっちも、陸がせり上がったり、冷凍庫が使えなくなったりと、
震災の影響が大きいんだろうけども、考えもしなかった産物だった。
今度は、陸自のヘリが来た。
ちょっとはなれた場所に、水と食料をおいていってくれた。
ここまで来ても夜はまだまだ辛かった。
ずっと毛布が欲しくてほしくてたまらなかった。
そう思っていたら、夜中1時頃に避難所に自衛隊がきた。
輪島から歩いて毛布を届けてくれた。
これは本当にびっくりした。
毛布を体にくくりつけて、50枚くらいの毛布を、夜中歩いて届けてくれた。
すごく温かい毛布で、孤立した場所でも、誰かが支えてくれていると感じた。
5日
朝、ヘリがきて、発熱のあった方を搬送していった。
名古屋からの若者たちが、隣の地区まで歩いていくと決心し、
道の駅のみんなでお見送りをした。
ウェットティッシュをくれたところに始まって、
車の移動、自販機の対応、サザエ、子どもたちの面倒だったり、
本当に彼らがいてくれたおかげでみんなのメンタルが持っていたきがする。
寂しくなるなという思いと、
そういえば自分も本当なら仕事始めを過ぎているはずだと思い始めた。
しばらくして、警視庁のヘリが来た。
明日から天気が悪くなりヘリは飛べなくなる。
今日のうちに、全員を孤立地区以外に運ぶとやってきてくれた。
一気に道の駅がバタバタとしだす。
名簿はどこか、何人いるか、子どもがいる家庭はどこか、、、
荷物をまとめ、車のキーはおいてきて、、
1便目の警視庁のヘリが家族を運んでいった。
うちには小さな姪や甥、大型犬がいた。9名1頭の大所帯だった。
弟家族だけでも先に行ってもらおうだとか相談していた。
そのうち大阪府警のヘリが来て、全員一度に運びますとなった。
行き先は、珠洲だった。
ヘリに乗れた時、少し泣いた。
道の駅のみんなも手を振ってくれた。
ヘリが飛び立つと、見えた景色はきれいな能登なんだけども、
土砂崩れが道を塞いでいて、想像を超えていた。
珠洲につくと、多くの建物が倒壊していた。
5日 珠洲
父の母校の中学校にヘリで降りた。
あとから知ったが、この場面がテレビのニュースで取り上げられたようだ。
弟家族がインタビューを受けていた。
避難所になっている体育館は、パイプ椅子などに座ったお年寄りや、
多分技能実習で来ている外国の方などいろんなかたが身を寄せていた。
また孤立していた道の駅と違って、
警察消防自衛隊と、いろんな人が応援に来ていてびっくりした。
父、弟と歩いて祖父を迎えに行った。
祖母は金沢まで買い出しに出ていたようだ。
祖父は近くの小学校に身を寄せていた。
体育館のマットで寝起きしていたようだった。
会った時、怪我なく無事な様子を直接見れて本当に安心した。
今度は祖父母の家に向かった。
倒壊した家、崩れた道路、倒れた電柱をみて、
ここで改めて大震災だったんだと思った。
家は1階が潰れて倒れていた。
この家から祖父母が出てこれたのは奇跡だと感じた。
納屋にあった軽自動車は無事だった。
祖父を迎えに行き、避難に使った軽トラと2台で
嫁らを残してきた中学校の避難所に戻った。
弟家族は、金沢から迎えの車で帰れる準備ができていた。
両親、妹、うち夫婦は、珠洲の軽自動車と軽トラで金沢まで戻ることにした。
珠洲から金沢までの道は、酷く傷んでいた。
倒壊した家屋と、救助をすすめている警察消防がたくさんの場所で見えた。
珠洲道路は土砂崩れがそこかしこであり、交互通行の場所もいくつもあった。
すれ違う車は、赤十字や関西電力、国交省、KDDIなど応援の車ばかりで涙がでた。
能登空港より先は、一方通行の交通規制があったりした。
穴水からは、津波なのか海辺に壊れた建物もみえた。
徳田大津からのと里山海道に乗ることができた。
いつもなら2時間ちょっとの距離が、5時間位かかった。
これでも、自分たちが孤立していた中でなんとか復旧してきているんだと感じた。
金沢まで帰ってきた時、5日ぶりに風呂に入った時、歯を磨けた時、ネットに繋がった時、
祖母も金沢で会えた時、全部がかえがたいありがたいことだと感じた。
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警察のヘリで一気に状況が変わり、6日には関東の自宅まで返ってくることができた。
自分はいつもの日常に戻れたのだけれども、
石川の家族や、まだ孤立地区にいらっしゃる方や、ニュースで目にするケースを思うと、
まだ全く心休まることはなく、むしろ何もできないことが歯がゆく思う。
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